高校時代って、気持ちも体も大人に近づいているんやけど、大人ではないという中途半端な時代ですよね。
小学校時代は素直だったので、いろんな人の言うことを素直に聞いて、結構影響されました。
中学校時代はカルチャーショックといいますか、狭い世界から少し世界が広がり、いろんな人を目にすることで自分の殻に閉じこもった時代でした。
大阪は当時(昭和50年代後半)、公立高校の受験は『地元集中』という制度?があって、特に「ここに行きたい」という高校がなければ、地元の高校に進学する、という制度でした。(地元の高校を受験すれば、多少成績が悪くても合格できた)
例えば、守口高校は、守口2中、4中がメインで進学します。
私の場合は守口北高校でしたが、そこには野球部がなかったので、守口高校を受験しました。私が通っていた中学校から守口高校を受験したのは7名ほど。うち1名は受験で不合格、もう1名は定時制に進学しました。
そんな状況なので、入学当時は知らない人ばかり。
すぐに野球部に入りましたが、これがまた今では考えられない、理不尽な仕打ちに溢れたクラブでした。(書くに耐えない事が多かったので、ここでは割愛)
毎日一緒にいたTくん
高校ではTくんとの出会いがありました。
野球部で仲良くなり、Tくんは1ヶ月で退部。私は1年で先輩を殴ってしまい退部。
そこから急激にTくんと仲良くなり、毎日、放課後はTくんの家に行ってたむろしていました。それはもう毎日。年末年始も夏休みも、バイトまで同じところに行き、遊びまくりました。
大晦日にはTくんのお母さんに年越しそばをご馳走になって、Tくん家族の一員のような感じになっていました。
Tくんからはホントに良い刺激を与えてもらいました。
2年時に担任になってもらったH先生
女性の先生で、私と野球部の悪ガキ2名が常に目をつけられていました。
修学旅行先で喫煙して停学になった際も、家まで来てくれて心配してくれました。(態度は呆れた態度で接してくれていましたが、言葉の端々に心配してくれていることがわかりました)
高校3年生の時、文化祭に仲間と組んでいたバンドで出演することになり、衣装をどうしようか、と相談していたら、他のメンバーはオシャレに関心があったらしく、自前で用意するわ、となり、私は服には全く頓着なかったので、着ていくものがありませんでした。(バンドはハードロックのコピーバンド)
で、見かねた友達が迷彩服上下と迷彩の帽子を貸してくれました。貸してくれた友達には悪いんですが、そのときの感想が「戦争で着る服やん」という感想で、気が進まなかったんですが、借りて衣装として着ました。
当然、その服装で校内を歩くことになるんですが、その服装の私を見たH先生が
「戦争で着る服着てなんとも思わんの?」
「人殺しをする人が着る服やで」と。
私が最初に感じた印象をそのまま言われたことで、急に恥ずかしくなり、文化祭でのステージが終わったらすぐに脱いだ記憶があります。
今はその思い出が忘れられず、ずっと頭の中に残っています。
牛乳配達をしていた時の大将
高校2年生の秋から半年ほど牛乳配達のバイトをしていました。
雨の日も雪が積もった日も欠かさず牛乳を配達していましたが、今から思うと朝早くからよく頑張っていたなぁ、と自分でも感心してしまいます。
そのバイト先の大将からは、お金を稼ぐことの厳しさ、大切さを教え込まれました。
ミスをすれば厳しく怒られ、ミス無く配達すれば褒めてくれる、ホントにいい人でした。
当時、毎日朝4:30〜7:00頃まで配達して、1ヶ月のバイト代が3万円。
そのバイト代をもらう際には、大将から必ず一言人生訓のようなものを述べられてから、バイト代を貰っていました。
そのときには話を右から左に聞き流していましたが、今になって『良いことを言ってくれていたんだなぁ』と、感謝しています。
おわりに
高校生の頃は、自分では大人だ、と思っているのに、周りの大人からは、まだまだケツの青いやつ、と見られていることにイラついたり、そういうのを逆手に取って子供を装ってみたり。
授業を抜け出して喫茶店に入り浸ったり、マージャンしたりと、今の自分が見たら眉をひそめるような行動や言動ばかりしていたように思います。
今の自分の基礎となる時代を過ごした高校時代だと思っています。