11月の中旬を過ぎて急に仕事が忙しくなってきて、なかなかブログの方に時間が割けなくなってきています。
今回の【今週のお題】、予約投稿しようと思っています。
私は小学校3年生の頃から、地域の少年野球チームに入っていました。
軟式野球です。
なぜ野球をしようと思ったのかは、今となっては不明ですが、当時(今から45年ほど前)は野球が盛んで、長嶋さん、王さんというレジェンドが現役で活躍されていました。
野球にあまり興味がなかったのですが、父親が『プロ野球』と『相撲』をよく見ていましたので、自然と『少年野球』に入部させられた、という感じだったと思います。
練習は毎週土曜日の午後(当時の土曜日の午前中は学校がありました)と日曜日に、淀川河川敷に行っていました。
部員は総勢30名ほどいたと思います。
小学5年生になる頃には、実力がついていき、所属するチームは守口市で準優勝するほどになっていました。
そのチーム内でレギュラーを勝ち取り、ピッチャー以外のオールラウンダーとして活躍。小学校を卒業するまで準優勝4回。見事な成績ですが、優勝することができなかった。
というのも優勝チームには、後にPL学園に行き甲子園で活躍した選手がいたから。
球が速くて打てませんでした。
中学校に上がっても、地域の少年野球チームに所属し、軟式野球を継続。(私が行っていた中学校には野球部が無かった)
そこでも北河内大会でいつも準優勝ばかり。優勝に縁がなかったですね。
中学校の時は、指導者がおらず、自分たちで練習メニューを考え、練習し、大会のときだけ保護者に監督としてベンチに入ってもらう、という形をとっていました。
この中学校3年間の『自分たちでやっていく』という素晴らしさを知ったため、ホントに野球にのめりこんだ時期です。
高校進学の時は悩みました。
自宅近くの高校には野球部がなく、野球をするなら少し離れた高校(もちろん公立しか行かせてもらえない)か工業高校に行くしかありません。
自他共認める『手が不器用』な私には『工業高校』という選択肢はなく、少し遠い公立高校へ進学。
その高校、私が入学する前年に、野球部が大阪府予選で準決勝まで進出していました。
迷わずその高校に入学し、野球部に入部。
晴れて高校球児となりました。
初めての『硬式野球』で、野球のレベルも中学校の時とは全然違ったのですが、かなり頑張りました。
その高校は定時制もあったので、夕方の6時には全てのクラブ活動を終えなければならず、練習不足・・・・とはならず、その後淀川の河川敷に集合し、夜練と称して素振りやランニングをします。
朝は朝で、5時半に登校し、グランド整備後、素振りとランニング(どんだけ素振りとランニングが好きなんや、と入部して1週間で思いました)。近隣住民の迷惑にならないよう、朝練ではボールを使ったバッティング練習ができなかったのです。
夏休み。
授業が無いため(一部の部員は補習を受けていましたが)、朝から晩まで練習。
夏の暑い日に、12時間練習で、練習中は水分を摂ってはいけない、という今となっては『謎ルール』があって、非常に苦しかった記憶があります。
前年、大阪府予選の準決勝までいっていたのに、翌年は3回戦負け。
新チームになり、秋の練習試合には私も代走や代打で出場させてもらえるようになり、ようやく硬式野球が楽しくなりだしたときのことです。
それまでも多々あったのですが、先輩方の『しごき』がキツく、せっかく野球を楽しんでいるのに、野球以外のことで『野球が嫌になってくる』というメンタルになっていました。(しごきとは、世間一般で言う『ケツバット』。金属バットで高校球児のフルスイングです。他にも多々ありましたが、そこは想像にお任せです)
なんとか年が明けるまでは『しごき』に耐えていましたが、どうにもたまらなくなり、とうとう先輩に手を上げてしまい、騒ぎになって、顧問から『退部』を言い渡されました。(もちろん私だけ)
もうその時には『野球』に愛着もなくなっていたので、さして悲しみや寂しさはありませんでしたが、退部になって急に時間が余るようになったので、放課後の過ごし方に苦慮した記憶があります。
その頃の事があって以来『野球』を観ることも激減し、それに代わって『ラグビー』を観る機会が増え(大阪では高校の授業でラグビーがあったので、そこでハマった)、それ以降は『ラグビー』ばかりです。
と、あまり良い思い出はありませんが、今思い返せば『そんな事もあったなぁ』と懐かしく感じます。
また、『練習中は水分摂取禁止』という謎ルールも、今の私には役立っています。
ただ、これは命に関わることなので、気をつけるようにはしていますが。
以上、私は野球でした。が、先輩に手を上げて帰宅部になりました、でした。
今週のお題「わたし○○部でした」