高校を卒業後、進路について全く考えておらず、やりたいことも無かったため、職業訓練校に行きました。自動車整備科に入り、1年間勉強?(遊び)してから、大手自動車メーカーのディーラーに入社しました。
それまでにそれぞれの場面で影響を受けてきました。
整備士として就職し、営業所を3箇所渡り歩き、腰椎椎間板ヘルニアを患い、手術をしたことにより、体力的に仕事を続けることができなかったため、5年間で退職しました。その5年間で影響を受けた人2人について紹介したいと思います。
言動はスパルタ、でも本当は優しい班長、Eさん
私が勤めていた当時、世の中はまだバブルの中にあり、自動車も飛ぶように売れていました。売れれば売れるほど整備士の仕事は増えます。
新車にエアコンをつけたり、新車を納車する前に点検をしたり、車検や法定点検をしたりと、休まる日がありません。
当時は週休1日で日曜日しか休みがなく、毎日ヘトヘトでした。
そんな時に出会ったのがE班長。
E班長は学歴が中卒。折りに触れ自分で言っていました。
毎日目が回るような忙しさの中、仕事を力量に合わせて振り分け、引き取り・納車の段取りや部品の手配など、整備業務の付随作業を率先してしてくれていました。整備作業は若手に経験を積ませよう、という意図だったようです。
毎日夜遅くまで仕事をして、翌日朝早くに出勤する毎日の中で、たまに夜の7時や8時位に終わるときがあったんです。そんな時E班長は、みんなを早く帰らせて、残った雑務を一人でこなしていました。
「俺も手伝いますよ」
と言うんですが、
「うるさい!はよ帰れ」
と言葉は厳しいですが、まんざらでもないような表情で、私達が帰りやすい状況を作ってい\くれていました。
そのE班長の口ぐせが
「遅い作業は牛でもできる。プロなら早く正確に作業しろ」
「どんな些細なことでもいい。1日に1個、仕事を覚えて帰れ」
でした。
今もその言葉は頭の中に残っていて、実践しています。
自分のことより後輩のことを思ってくれるT先輩
E先輩と同じ営業書にいたのがT先輩。
T先輩は整備ではなくフロントマンとして仕事をしていました。
(フロントマンとは整備側の受付のような仕事)
バブル末期にあって、毎日目が回る日々の中で、私が心を許せる数少ない先輩の1人でした。
いつもは冗談ばかり言っていて、みんなの潤滑油のような存在。
そんなT先輩、いつも自分の仕事は後回しにして、残業時間になったら整備の方の仕事を率先して手伝ったくれて、少しでも早く私達が帰れるようにしてくれていました。
私達はそれに甘えて、仕事が終わるとすぐに退社。すぐに遊びに行っていました。
そんな日々を過ごしていた時、夜中の2時頃に遊びから帰りしなに営業所の前を通ると、T先輩がまだ仕事をしている姿が見えました。
私達はなんだか恥ずかしくなり、その日以来T先輩を早く家に帰ってもらうように行動しました。
今もそのT先輩の仕事への取り組み方は参考にさせてもらっています。
おわりに
バブルの末期に就職し、忙しい日々の中で『仕事とは』という事を叩き込まれたのがこの頃でした。
上記の2名の方々は本当に心から尊敬できたし、今でも影響を受けたことが頭の中にも身体の中にも残っています。
本当に素晴らしい方々に出会えたのは、私の財産だと思っています。